昭和30年代の頃を思い浮かべながら里山暮らしを夢見る一人の男の生き様をご覧ください。
忘れられない思い出がある。
それはいつも七内川でのこと。
茅葺屋根の家に沢水を引き込んで暮らしていた頃のこと。
貧しかったかもしれないが将来への希望はあっても不安はなかった。
一生懸命生きることが正しかった時代だったと思う。
3歳ぐらいの頃だったろうか。 母は胸元に何かを抱えて走ってきた。 多分大本家の家の前あたりから走り続けてきたようで、 かなり息をからしていた。
家の前で一人で遊んでいる私の前に来て 抱えてきた胸当てのついたズボンを 私の胸に当て、大きさを確認してまた、 大急ぎでかけて行った。
幼い私には何がなんだかわからない出来事だったが、 いまだに忘れららない情景だ。
その胸当てのついたズボンを私は しばらくの間着ていたと思う。
新品を着た時のことは覚えていないのだが、 明るい紺色のコールテンの いつも着ていたズボンがそのときのものだったとは 確信している。
その頃の記憶の中に、何かを買ってもらったことは そのズボン以外にない。
母は相当な決心で 幼い長男の私にそのズボンを買ったことはまぎれもない。
とにかく現金のない時代だった。
きっとその頃は、時折やってくる行商が 大本家の前で大風呂敷を広げて 洋服を並べて見せていたところへ うわさを聞きつけて近所のおばさんたちが集まっていたのだろう。
お金がない場合はお米や小豆などでもいい時があった。
どこにもお金はなくて 物々交換がまだ行われていた時代だった。
高橋一族は大本家の高橋与平を中心に9戸が家を構えて暮らしていた。
家々の間隔は約100メートルぐらい。
東西にまっすぐに伸びた沢あいの部落で、沢幅は当然徐々に狭くなっていくのだが、私の家は奥のほうだったが200メートルぐらいしかない。
一個の家族人数は7,8人である。
もちろん子供から年寄りまでバランスがとれていて、とても平和でにぎやかであった。
私は7人兄弟の真ん中で姉が3人と妹が1人そして2人の弟がいる。子供の頃は祖母も生きていて大家族でワイワイ生きていた。
昭和35年の頃の話である。